クレマチスの園芸文化史

クレマチスの交配 1880~

1880年~1890年にかけても純系のラヌギノサ、カザグルマ、ヴィチセラを親とする傾向は続きますが、さらにこれらの2世代目を親とする交配や自然に結実した種から出来た品種も多くなり、それにつれて交配親が不明なものも多くなりました。

うすい青紫でジャックマニ型の草姿で今でも愛好者が多いペルル・ダ・ジュール(1885ラヌギノサ x ヴィチセラ交配種)、
ピンクでジャックマニ型のマダム・バロン・ベイヤール(1885)、
同じくM・コスター(1890)などがあり、
薄青の巨大輪で有名なW・E・グラッドストン(1881)、
白い花として日本ではマダム・バンホーテの名で親しまれているマリー・ボワスロー(1885)、
同じく花弁に赤の中筋が入るネリ-・モザー(1897ベリセイユ x マーセルモザー)、
濃い青紫で時に半八重となる名花ダニエル・デロンダ(1887)、
エルザ・シュペート(1891)、
赤で遅咲きのマダム・エドワード・アンドレなどは現在も作られている名花もこの時代の作品です。

さて19世紀も末になりますと、クレマチスの交配事情にちょっとした異変が起こりました。それまでの交配親はヴィチセラ、ラヌギノサ、カザグルマでした。そこに北米大陸の固有種であるテクセンシスが新しく加わったのです。これによってクレマチスの赤は、それまでの紅から真紅になりました。

一方交配親に原種のカザグルマ、ラヌギノサ、ヴィチセラが使われることが少なくなって交配親に交配種が使われるのが一般化し、原種から数えるといわば二世、三世のクレマチスが主流となりました。

しかし、あれほど盛んだったクレマチスの交配熱も、20世紀に入りますと翳りが見え始めました。当時ブリーダーの象徴的存在であったジョージ・ジャックマン、フランソワ・モレルはこの原因について「立ち枯れ病」の蔓延を挙げています。

1900年から1920年の間に発表された交配種はそれ以前に比べて数は多くないものの、現在でも作られているものが多く、
ヴィチセラ型の真紅のマダム・ジュリア・コレヴォン(1900ヴィチセラ・ルブラ x ヴィュ・ド・リオン)、
ヴィチセラ型で白のアルバ・ラグジュアリアンス(1900)とリトル・ネル(1915)、
ローヤル・ベルール(1914)、
ヴィチセラより大きい紫多花のレディー・ベティー・バルファー(1910ジプシー・クイン x ビューティー・オブ・ウースター)など名花が多いです。

大輪品種としては日本でもおなじみのラジュア・シュターン(1905)、
美しい濃青紫のレディー・ノースクリフ(1906ビューティー・オブ・ウースター x オット・フレーベル)、
形がよく美しい覆輪と中筋のエンプレス・オブ・インディア(フェアリー・クイーン x ヴィュ・ド・リオン)、
薄紫で堂々とした花容のプリンス・ヘンドリック(1908)、
丈夫で多花の覆輪中筋の中輪花カピターヌ・ツイヨー(1918)など現在でも愛好者が多い品種が作られています。


1918年から第1次大戦がはじまり1929年からは世界恐慌があってクレマチスの品種改良は低調でした。同じように1939年から1946年は第2次世界大戦の影響で新しいクレマチスの発表は殆どありませんでした。

このころから日本にもクレマチスが導入されますがまだ交配して新種を作るまでには至りませんでした。この年代の作品にはダッチェス・オブ・スザーランド(1934)、日本ではクリムソン・キングの名でよばれている赤の名花アーネスト・マーカム(1934)があります。

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